南部菱刺しとは

 青森県太平洋側、南部地方に伝わる伝統工芸、「刺し子」、簡単にいえば刺繍である。

 

 「南部菱刺し」は、「津軽こぎん刺し」、「庄内刺し子」と並ぶ日本の三大刺し子である。

 

 約300年前(江戸時代)、麻布しか着ることを許されなかった時代の農民が、いくらかでも温まろうと施した、女たちの冬の手仕事であった。始まりは野良着であった。麻布は織目が粗く風を通す。その織目を麻糸で保温と補強のために埋めていくことから始まった。

 

 南部藩の農民は貧しかった。藍色に染める前の段階の安く手に入る浅葱(あさぎ)色の麻布に、主に白黒の木綿糸で菱型の中に様々な模様を刺していく技法をとる。明治時代に入り、鉄道が通り色糸の毛糸が手に入るようになると女たちは自分のためにカラフルな「三巾(みはば)前垂(まえだ)れ(エプロン)」を刺した。センスと器用さのアピールであったのだろう。腕の良い女は良いところに嫁げたものだとも言われている。

 

 よく間違われるものに「こぎん刺し」があるが、こぎん刺しは津軽の伝統工芸である。藍色に白糸で刺すのが津軽藩の藩令であった。「野良着」としての上半身を覆うものは共通であるが、「こぎん刺し」は見頃のみであり「菱刺し」は袖、身頃全体に刺していく。「菱刺し」には「たっつけ(股引)」があり、「三巾前垂れ」がある。

こぎん刺しが色を使い始めたのは近年のことであるらしい。

 ある意味、南部藩の農民は見放されていただけに廃藩置県後鉄道が開通すると自由に色を使えたのである。

 

 菱刺しをしているということを知ってもらおうとすると、「こぎん刺しをなさっているんですか」と、「わざとはぐらかしているのだろうか?」と思うほど、南部の人間でも存在を知らないという現実がある。それは農民以外の人々は、絹の文化であったから麻布に糸で保温補強するという理由もなく、理解もしなかったのであろう。農民の文化であったから軽視されていたのである。一時期、菱刺しは人々の記憶から消し去られてしまった。

 

 その菱刺しを「」とし、「芸術」と認めたのは東京の民芸復興運動家・柳宗悦である。

 

 日本の伝統的工芸品に認定されている青森県の物産品は「津軽塗」のみである。お殿様への献上品であれば認定もされやすいのではなかろうか?

 

 一方、農民の野良着から始まった南部菱刺しと津軽こぎん刺しはどうであろうか?津軽人のアピール度の高さによるものかもしれない。こぎん刺しは「KOGIN」として県内外からの認知度が高いという事実がある。「菱刺し」はいまだに悪びれなく「こぎん」と混同されている。「菱刺し」もアピールしていく必要があるのであろう。

 

 南部菱刺しは布の縦糸を偶数本ずつ拾い模様を作っていく横菱になり、同じ大きさの菱模様をレンガの様に積み重ねていく。対して津軽こぎん刺しは奇数本ずつ拾い模様を作っていく縦菱となり「流れ」「囲み」などを使い模様を大構成していく。はっきりとした違いが、そこにはある。どちらも根気のいる作業である。

 

    便利になったこの時代だが、少しずつ形を変えながらも温もりある手仕事を伝統として残していかなければならないと思っている。